2011年2月22日火曜日

「歌骨」はどのようにして小説になったか ー小説「歌骨」出版のおしらせー

ある冬の晩、白くてやわらかくてふしぎな音の鳴るものが手の中にあるような気がしました。なんだろう、と考えているうちに思い浮かんだ言葉が「歌骨」です。この言葉をたよりにして十パラグラフほど一気に書きました。その組成、異世界のコミュニティでの受け入れられ方、交換の掟などです。このとき書いた部分は完成版にもかなり残されています。

それから、このふしぎな道具にふさわしい物語を見つける意識の旅がはじまりました。物語を見つけるのは地下の水脈を探るのに似ています。まちがった方向を選ぶと、すぐに行き当たってしまいます。物語が真に求めるラストまで行き着くことのできる水脈を見つけるには、精神の地層を注意深く探らなくてはいけません。理不尽なほど時間のかかる作業です。書いては書き直し、もだえながらすすみました。童話のようなSFのような不思議な世界が陰影を持ちはじめました。

小説「歌骨」はそのようにしてこの世に形をとることができた物語です。みなさんに異世界の旅をお楽しみいただけましたら幸いです。

2011年2月22日 立華ノリ美


「歌骨」のダウンロードはこちらから(試し読みもできます)
http://p.booklog.jp/book/21060
定価300円

2011年2月20日日曜日

僕が小説を書く理由

滅びゆく枠組とまだかたちを取れずにいるあらたな可能性のはざまで選択をせまられたのがわたしたちの世代でした。わたしのたどりついた答えはこういうものでした。「小説を書こう」

かつて文学は、時代の最先端を情熱的に生きようとするひとたちのためのものでした。今はどうでしょうか。形式化し類型化し、自らをその死にむけて追いやっているかのようです。

冷戦の終結、文化の成熟、情報化時代のはじまり。定式化された答えが無効になるなか、文学はやりつくされてその役割を終えたのだとささやかれるようになりました。本当にそうでしょうか。変革の波がおしよせている現在、真剣に取りくむべきテーマは本来ならいくらでも転がっているはずです。

テクノロジーの進化はめざましく、いまを生きる人々の感性や感覚を日々発達させています。その輝きをとらえる言葉を生み出す仕事は刺激的なものとなるに違いありません。

知識も認識も流動的になっている時代です。あたらしい物語をつむぐことは、あるいは砂の上に楼閣を築こうとする試みなのかもしれません。けれどもわたしはそれを見たい。これはひとつの戦いです。かつて放棄されてしまった仕事、積み上げること、そして先へとつなげることへの挑戦なのです。悲観的な空気にさらされながらも、真に生きようとする同志たちとその成果を分かちあうことのできる未来を夢みてやみません。

2011年2月9日水曜日

映画「ソーシャル・ネットワーク」レビュー:フェイスブックを作ったのは誰?

アイディアは彼のものではなかった。

「ハーバードコネクション」。いやらしさ全開のSNSサイトを思いついた名家の兄弟がギークのザッカーバーグを呼び出す。「おまえ作れ」。ザッカーバーグはピンときたようだ。言われたようなものをプログラミングしているうちにもっとスマートな着地点を見いだす。いける。そしてできあがったサイトを自分のものとしてローンチする。「ザ・フェイスブック」。

実装できたのは彼だけだった。兄弟との連絡を絶ち、サイトを自分のものにしてしまったザッカーバーグのこと、わたしは好きだ。

フェイスブックはみんなに行きわたるように作られたプロダクトだ。でも工場で作られるわけではない。こういうことは歴史上初めてで、この変化に組織も法律も追いつけずにいるようだ。

アイディアかプロダクトか。それともプロダクトそのものがアイディアなのか。いずれにしろ早く作ってリリースした方の勝ち。これがわたしたちの生きる時代。

実装できないわたしはちょっぴり複雑である。

2011年2月1日火曜日

情報量はメッセージである—Wikileaksによせて—



「誰によって書かれたのかはっきりしない書類でした。扱いが難しく、ただし書きをつけての公開でしたが、なんとむこう側からたずねてきたんです、これがどこから手に入ったのかって」
アサンジは欲しがらない。最後まで判断をひかえて待つ。

何が出てくるか分からないまま待つとは、ストーリーに仕立てるのをひかえて事実そのものに向き合おうとすることだ。明るみに出る情報が多ければ多いほど、善悪をはかるスケールもよりダイナミックに繊細になってゆく。

情報量はメッセージだ。空気のように無限の情報はわたしたちに伝える。「何もかもが起こりうるのだし、罪は人間の都合で判じられるにすぎない」

(TED Talks より)