2011年5月23日月曜日

タグ的生き方について

Evernote、好きです。あとで読むリンクとか、目を引いた記事、また読みたいツイートをコピペして保存してます。「外付け脳」とも言われているサービスだけど、重い物は入れないようにしていて、さくさくっとメモ用紙みたいな使い方で、でも整理できるからあとで本当に読むし。震災以来、タグ「原発」とか妙に充実してきてて、資料集みたいになってて、原発派のも反原発派のも、気になるのはそこにあって、どっちがどうなのかたどってみたり。リンクでも記事のコピペでも制限なくさくさく保管していけばいいのだけど、とりわけひとつの記事にいくつもタグがつけられることに、感動してる。iPhoneアプリの記事だったら「ネット」「便利」とか。VJの記事だったら「映像」「音楽」「クリエイティブ」とか。どこに書けばいいのか、どのフォルダに放り込めばいいか無理して決める必要がないやさしさそして合理性。インターネットの恩恵に2011年、浴している。あらためて。

ああでもあり、こうでもある—「タグ」という情報管理のあり方はデジタルじゃないと不可能だ。東浩紀氏によると、20世紀まで情報管理はツリー型でしかなされなかった。「ツリー型」とは、頂点から分類され果てしなく枝分かれしていく近代的なモデルで、図書館の分類番号がそうだし、学校や企業などの組織も確かにそういうあり方をしている。情報が物理的なカードのようなものである場合、間違いなくたどるために合理的な形なのだろう。それに対してデジタルが可能にした「タグ」の情報管理は、くくりの並列性をとおして「あたらしい、もう一つの秩序」を現出させていると東さんはおっしゃる。これは難しいテーマだけど、一段上、そのまた上に統合される可能性を感じつつ存在する必要がなくなると、視野も世界観も根本から変わるし変えざるを得ない。個人もまた、周囲によって細分化された属性でタグ付けされるが、どんなタグが自分に付いているかすべて把握できるのは本人だけで、でもそういう興味さえ価値を失っていくかもしれない。19世紀的自我の完全な終わりのはじまり。マーケティングにもかかわるこんな分裂症的な意識のこと、考えてみる価値はありそうだ。

(東浩紀さんの某大学での講義を受けて)