2010年4月11日日曜日

シャネルの流儀—書評「獅子座の女シャネル」



「獅子座の女シャネル」は1976年にフランスで出版されたシャネルの伝記である。執筆したのは作家のポール・モラン。1947年、スイスへ亡命していた時代に直接聞いた話のノートを元にしたこの作品が彼の遺作となった。映画評論家の秦早穂子さんの訳で1977年に日本版が出されている。わたしは古本で購入したが、今も本屋に並んでいるのを目にすることができる。シャネルの伝記の決定版といえよう。(去年、新訳が発表されているがそちらは未見)原題は「L'Allure de Chanel」。あえて訳すなら「シャネルの流儀」とでもなるだろうか。 

 シャネル自身の独り語りというスタイルをとっているこの本を読むと、まるで彼女の部屋にいてお茶を飲んだり雑誌をめくったりしながらいつまでも終わらない話を聞いているかのような気がしてくる。作家の作り上げた女主人公としてのシャネルであり、古いフランスの映画や小説に出て来る、もう若くはないが美しく自立した女性たちの姿が重なる。個性的でみずみずしいが気難しい。ものの考え方がいかにも明晰で、洗練されているが、驚くほど古風なところもある。シャネルの生涯を扱ったものは映画や本などたくさんあるが、他のシャネルではだめで、わたしはポール・モランの小説の主人公としての彼女に魅了されている。

 新しい時代を切り開くデザインを生み出したひと、シャネル。女性の体のまわりにまだ誰も見出したことのなかった線を引いて彼女らを解放した。造形の天才であった彼女は、ビジネスに長けた人であり、時代に愛され、たくさんの愛にめぐりあった人でもあった。その生い立ち、友好関係など、プライベートにおいては嘘を交えて語っていたことが今では明らかになっているが、一人の成功した女性が過去を作り上げることをそう非難するものでもないだろう。それはともかく、モードについての考え方にふれている章ではクリエイターとしての彼女のスタイルを垣間みることができる。

「エキセントリックなものは自滅する」— 美的であることと華美であることを切り離して考えていたシャネルは、パリの街中からモードを拾い上げた。映画「ココ・シャネル」にも男性の服装を観察してパンタロンスタイルを生み出すというシークエンスがあったが、この本にあげられているのは、自転車に乗る街の女性の簡素な着こなしだ。ハンドルを握るため、ハンドバッグではなくショルダーバッグを持っている。邪魔にならないように動きやすいぴったりした服を着ている。スカートのすそが風にまくりあげられ、それをおさえる仕草が美しい。美と必要性によって計算され選ばれた服。それはものの極められたかたちであり、シャネルはそこにモードを見出す。


(…)モードというものは、その存在以前に、街にあっちこっち、ころがっているものなの(だから)だ。そのころがっているものを、あたしは、あたしなりの方法で説明し、引き出してゆく。そしてはじめて、モードは生まれるのだ。(p.217)


 いまここで動きながら空間にラインを描いているひと。実際に生活しているひとの持つ感覚からヒントをみつける。大切なのはそのとき街にある気分をすくいあげることである。それは新鮮さを印象づけると同時に安心感を与えもするデザインを生むだろう。

 シャネルは簡素で貧乏人の着るような服を贅沢なものとして社交界に受け入れさせることに成功した。シンプルであることへの憧れをラグジュアリーと位置づけて信じさせたことに彼女の発明がある。実際にどう着られるかが大切で、服そのものを芸術だとは考えていなかった。例えばデザインの盗用を嫌悪する当時の業界において、シャネルはコピーを許容していた。


 モードは死ななければいけない。それも早く死ぬことである。そうしなければとうてい商売は成り立ちはしない。 (p.213)


 流行遅れであると人々が感じるのでなければ、次のコレクションを発表する意味はない。


 既製服がモードを殺すということをしばしば耳にする。モードは殺されることを望んでいるのである。モードはそのためにこそあるのだ。

 安い値段の製品をつくるためには、高い製品をつくることからしか始まらない。そこに、縫製のしっかりした基礎がなければならない。まず高度のものでなければならないのだ。量は倍増された質ではない。質と量とは、本質的に違う。これさえわかれば、感じられれば、そして許されれば、パリはすくわれるのだ。(p.224)


 パリとは、ピカソ、コクトー、ディアギレフのいたパリであり、彼女は社交人や芸術家たちの間を堂々と渡り歩いた。


 モードはパリでつくられる。なぜなら、何世紀以来、ここであらゆる人間の出会いがあったからだ。 (p.217)


 パリの社交界に生きたシャネルだからこそ社交界で着られる服を作ることができたのだが、彼女はそこから距離をとる術をも身につけていた。新しいものを投げ込むのには必要なことだ。そんな彼女にとってクチュリエとは、天才を持った人のことである。


 天才とは予見するひとである。政治家以上に、偉大なクーチュリエは、彼の精神のなかに未来をみ、未来をもつ。この未来を見る目がなくして、どうして、冬に夏の服を、夏に冬の服を作ることができよう。(p.217)


 天才の生み出したアイディアには価値がある。それはスタイルの発明に対して、であり、布地の品質に対してではない。ぜいたくというのは豪華ということとイコールではない。わたしたちにはなじみの価値観ではないだろうか。21世紀のはじめまで、ナイロンのハンドバッグがブランドの名の下にたいそうな値段で売られていたではないか。


 あたしのいうぜいたくさとは、つくるひとの天才である。彼は、ぜいたくさとはなにかと想像できうるひとであり、このぜいたくに、形をあたえる。この形は、やがて多くの女たちが応じることによって説明され、翻訳され、世界にひろがってゆく。

 創造とは、芸術的天与の才能であり、クーチュリエとその時代の協力によって出来上がる。ただ一枚の衣装をつくって、成功するというような表面的なこととは全く違う。(p.214)


 まるでプラトンのイデアのように、最初の形をクチュリエ(デザイナー)が作る、それを普通の人間達が真似して、普及させるのである。神の似姿としてのクチュリエ。マス・プロダクションというシステムが社会に組み込まれて行く時代の流れの中でどう振る舞えばいいかを直感的に理解していたひとなのだ。


 あたしは気に入るものをつくるためではなく、流行おくれにするためにつくるのだった。いや、なにより、まず一番に、きらいなものをつくらないことだった。あたしは、自分の才能を爆弾として使った。あたしの特徴は、批評精神と批評眼をもっていることだ。(p.223)


 いつでも新しいラインを引く隙を見出す自らの精神の働きに絶対の自信を持っていたシャネル。そんな彼女には生きることが作ることだったに違いない。事実、第二次世界大戦前後に十年以上の中断をはさんだ後、八七歳で亡くなるまでコレクションを発表し続けたのだった。


(写真はカバーの下の表紙に刻まれたココマーク。これを表に出せばそれだけで買ってしまう人はいるはずである)